しばらく前から良く考える話題。ここ10年位でインターネットと携帯に関する分野は予想以上の進化と生活への浸透ぶりである。学生時代にはポケベルがまだ流行っていた時代だったのに現在ではスマホでなんでもできそうな勢いである。
ナビもスマホに取って代わられそうだし、情報を調べるときに図書館で調べものという時代ではなくなった。ちょっと知らない単語が出てきたら使うのは辞書や百科事典ではなくて、パソコンの辞書サイトやwiki。目的の情報への到達スピードは格段に上がって、実際に得る情報量は昔と比べると格段に増えた。それに伴い生活自体もだいぶ変化している。一般的には世の中便利になったなという感想なのだが・・・。
しかし、きっと何かを失っているのだ。両手には10本の指しかないし、両手を使ってすくえる量には限界があり、その容量は昔からあまり変わらないように思えるから。たくさんの情報を扱っているように思えて、実はザバザバと指の間から流れている感じがしてしょうがない。
生きている時代は選べないからそこに反抗することはしないのだが、この世の中で何を選択し、何を選ばないのか、というのをもう少し考えないといけないのかもしれないと思うこのごろである。
これを考えるきっかけは、パゴダ(と現在の僕)が生きている世界は、僕が子供時代をすごした世界とはまったく違うので、たまに面食らってしまうことがあるからなのです。先日パゴダは「パソコンで買えばいいじゃん(ネットで注文して買えばよい)」と言いました。とりあえず「パソコンで買うにもお金が要るんだよ」って言っておきました。妙なことを理解しているようでなんか複雑な気分です。
今聞いているのは、ラヴェル クープランの墓より[トッカータ]
トッカータはラヴェルのピアノ曲でも難曲中の難曲で大好きな曲です。この疾走感がたまりません。
二つの演奏(いずれも巨匠)を聴いてみても失われた何か、得た何かを感じることができます。
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