以前、書いた記憶もあるのだが手紙の言葉と話す言葉の違いというのは大きいと意識している。野沢尚の「恋人よ」の中では2組の新婚夫婦が交錯した状態(まるでマンガのママレードボーイの両親のような)で事態が深刻化していく。隣同士で暮らす、2組の夫婦がお互い隣家の相手が好き!という設定なのだが、そこでは郵便局の私書箱を使った手紙のやり取りが行われている。
2011年の現在では携帯電話とメールが発達したので、まさか手紙でもって秘匿情報のやり取りをするという状況は考えにくくなってしまった。手紙が好きなものとしては残念な限りです。
個人的な経験では、大学時代の尊敬できる先輩と往復書簡で遊んだ?ことがあった。いや、趣旨は「相手を驚かせる、楽しませる」という極めて遊びに近いものだったが、葉っぱにメッセージを書いたり、封筒を手作りしたり、紅葉した葉を貼ったりと真剣に工夫を凝らした手紙を書いた。
手紙の何が面白いかというと、相手がどういう意図をもって文章を書いているかストレートに伝わりやすいこと。まさに行間に隠された意味が伝わってくる。
一方で話す時の言葉はその瞬間瞬間に感情を乗せやすいし、何より一度言ってしまった言葉は取り消せない。その点、推敲する時間のある手紙とはちょっと違った注意が必要ですね。
このBlogはあまり十分な時間をかけて書いているわけではないので、ところどころに失言が潜んでいてもご愛嬌・・・
今読んでいるのは、野沢尚「眠れぬ夜を抱いて・・・」
本日、「恋人よ(上)」を読み終えたのだが、この本の冒頭に何度か「眠れぬ夜をすごして」という文が登場していたのでこれは関連している別の作品か!と思って読んでおります。しかし、この2つの本にまったく関連は無いということが本日はっきりわかりました。なーんだ。
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